お坊さんが答える不妊の悩み・流産の悩み

メンタルケア
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わたしが不妊治療に行き詰まったときに頼りにした、お坊さんの悩み相談サイト「ハスノハ( https://hasunoha.jp/ )」。

救われた言葉を書き留めて、何度も読み返したりしました。

授からないことも「授かり」なのです。
授かるとは、目に見えるものばかりではありません。
あらわれた結果はすべて授かりなのです。

https://hasunoha.jp/

はじめて出会う考え方で、この言葉と出会ったときは、新しい何かを発見したような気分でした。

――授からないことも「授かり」。

妙に納得してしまいました。
何かカタチとして手にすることばかりが、授かることではないと。

「自分に与えらえたものが、すべて授かり」

そのように受け止めてみると、いま、目の前にある現状はすべて授かったもの、と思うこともできました。

子どもを授からないと、
「自分には与えられない」という受け止め方をしてしまいますが、
そうではなく、
子どもがいない生活を天から与えられたのだということ。
見捨てられたわけではないということ。

子どもを授かるためのご縁が調えば、また授かれることもできるのではないだろうかと思います。
そのご縁をどう調えるかとなりますが、何よりまずは、ご夫婦仲睦まじくに、お互いで支え合って助け合うこと。

https://hasunoha.jp/

“縁”。
分かってはいるけれど…というところではありますが。

どんなに医学が進歩したとしても、縁がないと赤ちゃんはやってこない。
自分たちでコントロールしようと思ってしまうから苦しくなる。

改めて子は授かりものということを認識して、縁を整えることに目を向ける。
そして、縁を整えることとは、やっぱりいま目の前の生活、夫婦の生活をよりよくすることなのだと思います。

兄弟の数に理想はありません。
ひとりっ子のよさ、ふたりっ子のよさ、さんにんっ子のよさがあります。

https://hasunoha.jp/

二人目不妊に悩んでいたときに、ハッとさせられた言葉です。

「兄弟は何人が理想」なんてことは何にもない。
それぞれによさがあることを忘れてはいけないと思いました。

我が家には、ひとりの子がわたしたち夫婦を選んでやってきてくれている。
その意味をもっと大切にしなければ。
まずはこの子を精一杯、幸せにすることがいちばん大切だと改めて思い直しました。

仏教では生死に境目はない。
死ぬのは、生まれたから。

https://hasunoha.jp/

流産した命について、どう受け止めたらよいのか…と考えていた時に目に留まった言葉です。

初期の流産は、何の実感もないまま終わってしまうものが多いです。
「果たして命とは、どこからが命と呼べるのか…」
それがよく分からず、自分の流産体験をどう処理したらよいのか整理をつけることができませんでした。

そんなときにこの言葉に出会い、自分のなかで結論づけることができました。
悩む必要はない、わたしは、「自分が“生”と感じたものはすべて“命”と思えばいいんだ」と。
「わたしは、たくさんの命に恵まれたんだ」と。

わたしは、流産という形で、命に触れる体験を人より多くさせていただいたのかもしれない。
そう考えると、わたし自身の人生までもが、とても尊いものにも感じられました。

「もっともっと」は仏教では推奨しません。
四苦八苦の中に「求不得苦」という求めるものが手に入らない苦しみがあります。
人は「もっともっと」ほしがります。
そうすると苦しくなるような仕組みになってるんです。

https://hasunoha.jp/

不妊にかかわらず、人生すべてにおいていえること、
「もっともっとが苦悩を生む」

もっと成功したい。
もっとお金がほしい。
もっと綺麗になりたい。
もっと認められたい。

それが手に入っていないことに心がとらわれると、そこには苦しみしかありません。

「子どもがほしい」「二人目がほしい」と思うのは自然な心だと思います。

でも「ないこと」「手に入ってないこと」ばかりに目を向けてばかりいては、一生幸せにななれない。
人生はそんなしくみになっているんですね。

反対にいえば、幸せになることは、いまこの瞬間からできるということでもあります。
「あること」「持っているもの」に目を向けていまに充足感を感じる。

仏教の教えは、頭で考えてもどうしようもないことに悩み、怒り、苦しむ人間の心(煩悩)を
うまく導いてくれると思います。
人間のダメな部分がベースにあるところに、わたしはとても親近感がわきます。

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