妊活や不妊治療をしているのに授かれなかったり、流産してしまったりするのは、辛く悲しいことです。
そんな状況から立ち直り、気持ちを立て直すために、知っておきたいことがあります。
状況が違うと、ものの見え方は変わる
ある雨の日。
その日は、大雨注意報が出るくらい強い雨が降っていました。
「ザーッ」と、家の中にまで聞こえてくる雨音に耳をすませていると、なんだか心が落ち着くような気がしました。
いつも聞こえる県道を走るトラックの音は、雨音にかき消されて聞こえません。
「ザーッ」と降り注ぐ音。
「ポツ、ポツ…」と軒下にしたたり落ちる音。
それらはBGMのようで、テレビを消して、しばらく聴き入っていました。
その頃のわたしは、繰り返す流産や不妊治療の疲れで心が弱っている状態でした。
そんな弱った心を癒すのに、雨音はぴったりだったのかもしれません。
頭の中にあるゴチャゴチャとした感情を、丸ごと洗い流して鎮めてくれるようでした。
普段なら、雨音に聴き入ることなどありません。
むしろ「今日は雨かぁ」と残念に思うことのほうが多いのですが、同じ「雨」という出来事でも、その時の状況や気分で、感じ方はずいぶん変わるものだと思いました。
出来事はすべてニュートラル
どうして同じ出来事でも、そのときの気分や状況で感じ方が変わるのでしょうか?
それは、すべての出来事は、本来「ニュートラルなもの」だからだと思うのです。
ニュートラルとは中立・中間という意味。
つまり、出来事それ自体は、もともと良いことでも、悪いことでもない。
雨は、良いことでもなければ、悪いことでもない。
それを、「人の心」が勝手に、
雨=濡れる、面倒=嫌、悪い
と意味づけしてしまっているんですね。
悲しい出来事であっても、受け止め方はひとつではない
話を不妊治療に戻すと、授かれないこと・流産してしまうこと=悲しいこと・悪いことではないということになります。
もちろん、流産して悲しいときに、その辛さ、悲しみを否定する必要はどこにもありません。
でも、傷ついた心を癒すためには、「流産=絶対的に悪いこと」って決まっているわけではないんだよ、という視点はあったほうがよいと思うのです。
放っておくと、「流産=辛い→辛い自分=ダメな自分」どんどんネガティブな方向へ意味づけしてしまう可能性があります。
「流産」という誰がみても悲しい出来事でさえも、その受け止め方はひとつではない、自分次第でどうとでもなる。
わたしは、そう理解してみることで、少し気持ちを立て直すことができました。
流産を繰り返したことは辛いことだったけど、
- たくさん体を休めることができた
- 自分の健康を意識するようになった
- パートから社員になって収入が増えた(結果的にいい条件で産休に入れた)
- 長男の子育てに専念することができた
- 同じことで悩む人たちの力になりたいと思うようになった
- たくさんの人のやさしさに触れた
「私に与えられたもの」「私が得たもの」はちゃんと存在するんだな思いました。
こう考えることで、辛さや悲しみの量が減るわけではないけれど、いまの自分にあるのは辛さや悲しみだけではないということも感じられました。
世間のものさしで生きている
世の中には、
“世間のものさし”
“仏さまのものさし”
のふたつがあるということを、昔読んだ仏教の本で学びました。
物事を、良いとか悪いとか決めているのは、“世間のものさし”だったりします。
雨=濡れる、面倒
病気=悪いこと
のように。
“仏さまのものさし”でみると、病気は悪いことではありません。
でも、わたしたちは往々にして“世間のものさし”の影響を受けています。
たとえば、
「結婚したなら子を設けるもの」
「子どもがいるほうが幸せそう」
とか。
知らず知らずのうちに世間が作ったレールに縛られて生きています。
きっと、まったく影響を受けずに生きるというのは難しいことでしょう。
けれど、もし自分の苦しさの原因が、実は“世間のものさし”のために生じているのだとしたら…。
「自分は本当にそうしたいのか?」
あらためて心に問いかけてみると、少し違った答えがみえてくるかもしれません。
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