不妊治療が上手くいかなくて、心が追い詰められてしまったら…。
そんなときの気持ちの切り替え方として、あえて自分の不妊治療の結末を想像してみたことがあります。
不妊治療の結末を想像してみる
二人目不妊で行き詰まり、
治療を続ける気力もなくなり、
かといって諦める決断もできず、
悶々とした日々を送っていたある日、
「このまま二人目を授からなかったら、わたしは幸せではないのか?」
そんな疑問が頭に浮かびました。
そして、
「不妊治療の先には、自分にはどんな未来が待っているのか?」
と、治療の結末を想像してみたことがあります。
もし、二人目を授かったら…
もし、願いが叶って二人目を授かることができたら、それはそれは夢のような出来事。
不育症という不安も乗り越えて赤ちゃんと対面できたとしたら、感動のあまり泣いてしまうと思います。
それはもう、間違いありません。
もし、不妊治療を断念したら…
それとは反対に、もしどこかのタイミングで治療を断念したとしたら…。
わたしの頭に浮かんだイメージは意外にも悪いものではなく、
願いは叶わなかったけど、やりきった自分の姿でした。
「これだけ頑張ったんだから、結果は仕方がない」
という思い。
想像の中で、肩の荷が下りたような気さえしました。
きっとそれは、自分が望んだはずの
「二人目がほしい」
という思いが、生理や流産の度に、雪だるまのようにどんどん膨らんでしまって、次第に、
「これだけ時間とお金をかけておいて、妊娠しないわけにはいかない!」
という義務のようなものに変化してしまっていたからだと思いました。
いつのまにか「諦めてはダメ」と自縛していたのでした。
そんな自縛が、「諦めよう」と決意した自分を想像したと同時に解けはじめました。
ずっと張り詰めていた糸がゆるんだような気がしました。
どちらの結末も不幸ではない
2パターンの結末を想像してみて分かったことがあります。
それは、
「どちら結末も、不幸なわけではなかった」
ということです。
長い間不妊治療をしてきた者にとって、
「子どもを諦める」というのは、とても勇気がいる決断です。
「ひとつの人生を受け入れる」という行為だから時間もかかると思います。
でもわたしは、
「断念して未練たっぷりの自分」ではなく、
「やりきった自分」を想像することができました。
さらに、もう一つ気づいたことがあります。
おそらくわたしは、
「『やりきった』と思えるようになるために、いま頑張っている」
のだと思いました。
もうひとつ言うと、
「やりきった」という感情が沸いてくるまで、
(良くも悪くも)わたしは治療をやめられないと思います。
高額な治療費も、諦め料みたいなものかも…。
実際に不妊治療を断念するとなると、そんなに上手い具合に心の整理はできないと思います。
こんなことは、ただわたしが思い描いている「理想の不妊治療のやめ方」なだけかもしれません。
でも、諦めること、治療を断念することが、必ずしも悲しみしかない結末ではないと分かったことは、いま治療をするうえで、大きな安心につながりました。
わたしを支えてくれるもうひとつの存在
もうひとつ、諦めた自分を想像したときに心の支えとなったのは、母の存在でした。
母には、もともとは不妊治療していることは伝えていなかったのですが、流産したことをきっかけに話すようになりました。
わたしが治療を辞めたとしたら、まず報告する相手。
わたしが正直に「疲れた」と言える相手です。
(「疲れた」と言えることもとても大切だと、後から思いました)
たとえ、わたしが不妊治療を断念したことで苦しんだり劣等感を抱いたりしたとしても、母は、そんなわたしも、丸ごと受け入れてくれると思います。
「生きているだけでいいんだよ」
と、わたしにそう言ってくれるんじゃないかと思いました。
そこでようやく、わたしは二人目を諦めていいんだと納得できるような気がしました。
最後に、母がわたしに言ってくれそうな言葉(妄想)でこのページを終了したいと思います。
いままで、よくがんばったね。
おつかれさま。
きっと、ものごとは良いほうに動くよ。
あたなのからだがいちばん大切だよ。
コメント