苦難福門ってどんな意味?
苦難福門という言葉。
「苦難は幸福の入り口である」
「苦難に会ったとき、その現実を受け入れることで幸福への道が開ける」
といった意味の言葉です。
二人目不妊のうえに流産を繰り返していたとき、この言葉を信じて、
「いまは辛いけど、きっと幸せな結末が待っている!」
と前向きでいようとしました。
しかし、流産の回数が2回、3回と増え、次こそは大丈夫と思ったのにダメだった4回目の流産あたりから、この言葉を信じられなくなっていきました。
「苦難が続くばっかりで、いいことなんか待っていないじゃないか!」
と。
でも、あるとき、わたしは、この言葉のとらえ方を根本的に間違えているのかも?と思いました。
苦難のあと、ただ辛抱して受け身で待っていれば、幸せが向こうからやってきてくれるわけではないのです。
幸せは自分から捕まえに行かなければ、やってきてくれないのです。
苦難が過ぎても、幸せはやってこなかった。なぜなら…
幸せを迎えるためには、自分の身に降りかかった苦難を、どう受け止めてどう自分に生かすかにかかっています。
何か辛いことに出くわしたとき
「あぁ辛い、悲しい、なんて不幸なんだ…、早くこの苦しみの時期が通り過ぎないかな…」
とじっと耐えているだけでは、おそらく幸せはやってきません。
もしくは、幸せがやってくるまで、とても時間がかかります。
現実をしっかり受けとめると同時に、
「自分はこの苦難から何を学べるだろう…?」
と、自ら苦難を幸せに変えられるように努力するときに、幸せはやってくるのだと思います。
苦難をポジティブに転換できる人こそ、次の幸せを見つけることができる。
もっというと、
苦難をポジティブに転換できた時点で、すでに幸せはそこにあるのかもしれません。
わたしは、不妊、流産という苦難を受け入れる、受け止める努力はしていたけど、心の中にはずっと、
「二人目ができたら、どんなに楽しいだろう」
「二人目がいればこんなこともできる」
と、いまのことより、先のことを考えていました。
幸せを味わうことを、自ら先延ばしにして、それがやってくるのを待っていました。
でも、
「もう二人目は無理かも、むしろ授からない可能性のほうが高いかも」
と思わざるを得ない状況が続いてはじめて、
幸せは先延ばしにしていては、幸せが向こうからやってくるのを待っていては、一生幸せがやってくることはないと気づきました。
幸せになるには、いま、どれだけ自分に幸せを感じられるかしかない。
「子どもがいること」=「幸せ」
というのは条件付きの幸せです。
そうではなく、
「子どもがいても幸せ」
「子どもがいなくても幸せ」
そういう自分を育てるには、いま目の前のことから幸せをみつけるしかない。
苦難を乗り越えるには、いま、そのままの自分から、どれだけ自分に幸せを感じられるかしかない。
結局、苦難が幸せの入口というより、苦難は、幸せについて考えるきっかけであって、幸せそのものは、実は既に自分のなかにあったんじゃないかと思いました。
…そう気づき、目の前の幸せを意識しはじめて、間もなく次男は誕生してくれました。
結果、わたしは、二人目を迎えるという自分がいちばん望んだ形の幸せに出会うことができたのですが、次男の妊娠にあたっては、不思議とよい偶然が重なったようなところがあります。
「自分の幸せは自分で迎えに行こう」
そんな決意に、最後は神さまが味方してくれたように思えてなりません。
苦難に何を見出すかは自分次第
この不妊、流産、不育症と向き合った9年間は、心の修行だったようにも思います。
自分の性格(完璧主義、神経質、心配性、人に気を使う、頼るのが苦手…)と、嫌でも向き合わなければなりませんでした。
たとえば、
妊娠・出産は思うように進まないことばかり。
完璧主義は通用しません。
仕事を調整して治療を受けるためには、職場の人に頼って助けてもらうことも必要でした。
妊娠できるのだろうかとずっと心配していては、心が休まりません。
不妊、流産、不育症と向き合っていると、自分の心のクセみたいなものがとてもよく分かって苦痛でした。そして、自分を変えていかなければなりませんでした。
しかしながら、妊娠出産に続く子育ても、自分の思うようにならないことばかりです。
不妊治療を卒業したいま、これまでの経験が生きています。
治療期間は、わたし自身に、その後の人生を生きていくための心構えや忍耐力の土台を作ってくれたようにも思います。
妊娠・出産という神秘的な出来事を前にして人間がコントロールできることは、ほんとうにわずかしかありません。
だから、できることなら不妊や流産に悩むことなく授かれたらどんなにいいことかと思います(いまでもそう思います)。
でも、出くわしてしまった以上、苦難の中に何を見出すかは自分次第なのだと思います。
よく「その人に乗り越えられない苦難は与えられない」といいます。
それは、その苦難を乗り越えられるだけの力が備わっている、という意味でいわれていることだと思いますが、一方で、どんな苦難がやってこようと、「わたしはわたし」。わたしは既に幸せな存在だからなのかな?と思いました。
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